高野山の宝来とは|切り絵に込められた意味と文化

高野山の宝来(ほうらい)は、新年に用いられてきた切り絵の縁起物です。
紙を切り出して作られるこの宝来には、場を清め、年の節目を整えるという意味が込められてきました。

高野山の宝来は、年末から新年のはじまりにかけて紙を切り出して作られ、長く受け継がれてきました。
稲藁が入手しにくい山上で、しめ縄の代わりとして始まったという一般的な説明があります。
しかし私は、ただ、それだけで語りきれるものではないようにも思われます。

宝来は、下絵に沿って刃物で切り、形を整えていきます。
集中して下絵から逸れないように刃先を進ませる行為は、自然と余計なことを考えなくなる時間でもあります。
色や装飾を誇示するのではなく、形を整えること自体が、自分の気持ちを落ち着かせる行為として成り立っているようにも思えます。

宝来を切る様子
宝来制作風景

高野山の宝来には、いくつかの伝統的な形があります。
雲形、宝珠、そして「寿」の字などが代表的なものです。

雲形は輪郭として用いられ、宝来全体の外形を整える役割を担っています。
日本では古くから、彩雲や瑞雲のように、雲そのものに吉兆や清浄の感覚を重ねてきました。そうした雲のイメージになぞらえるなら、宝来の雲形もまた、内側に配された文様や文字を包み込み、場を整えるための輪郭として用いられてきたのかもしれません。

高野山の宝来 雲形
高野山の宝来 雲形の様子

宝珠の形は、仏教で語られてきた宝珠のイメージと重なるものがあります。
仏教において宝珠は、願いをかなえる宝玉、仏の教えの象徴として表されてきました。宝来の中に配される宝珠も、そうした考え方になぞらえ、願いや祈りを込める「よりどころ」のような形として受け取られてきたのかもしれません。

高野山の宝来 宝珠
高野山の宝来「宝珠」

また「寿」の字は、その字のとおり、長寿やめでたさをまっすぐに表す形として親しまれてきました。

高野山 宝来 寿
高野山の宝来「寿」

これらの形はいずれも、見るための装飾というより、空間に意味を与え、心の向きを整えるためのかたちとして受け継がれてきました。

石川県能登地方でも、高野山の宝来に似た切り絵の風習があります。
能登では、神棚や住まいに貼る吉語や七福神の切り紙飾りが、「宝来」と呼ばれて親しまれています。

高野山の宝来と、能登で育まれた紙飾り。
形式や起源は異なれど、「場を整え、心を新しくする」ための日本人の感性が、そこには息づいています。

私たちの工房でも、宝来を単なる飾りとは考えず、
新年の節目として場を整えるものと捉え、丁重に扱います。
掛け軸の仕立てにおいても、作品と空間の関係を整えることを大切にしてきましたが、その感覚は宝来とも通じるものだと感じています。

当工房では、こうした背景も大切にしながら、宝来と向き合っていきたいと思っています。

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高野裂の謎にゆるく迫る

まるで春かと思わせるような天気があったかと思うと16日に雪が積もった高野山です。冬の始まりも終わりも三寒四温で、徐々に変わっていくのですね。先日ケーブルカーの新調工事が終わり、参拝者が少し増え始めました。きっと皆さん積雪に驚かれたでしょう。

そんな高野山では、13日に転衣式が行われました。転衣式は一年間、弘法大師の名代として務められる法印と呼ばれる高野山真言宗最高位に就かれる式です。そして法印になられると緋色の法衣に変わります。

話変わって、表具の裂地の中で「高野裂(こうやぎれ)」と呼ばれる裂地があります。これは名のとおり高野山由来の裂地といわれております。

高野裂は綾織りという織り方で織られ、基本的には後から染めます。当店でも色を指定し、染めてもらっております。とても柔らかい裂地で、綺麗に柄を揃えて裏打ちするのは少し難易度が高いです。

この裂地は、織り方などについては調べると出てきますが、どういった経緯で高野山由来の裂地となったのか、よくわかりません。昔、私が京都で修行中のころ聞いたのは「茹でるらしい」とか「叩くらしい」といったことで、長年なぜ高野裂と呼ばれるのだろうと思っておりました。結論からいうと未だにわかっておりません。今度、高野山大学の図書館で調べてみようと思っているところです。

ただ、上記の茹でる・叩くといったことについてはなんとなく見当がつきました。

まず、「茹でる」これは高野裂が後染めの裂地だということに答えがありました。染色する絹織物は精練と呼ばれる工程を行います。絹糸の表面はセリシンという物質で覆われており、お湯で煮ることでセリシンを取り除きます。これにより絹独特の光沢が出ます。高野裂を茹でるというのは、この精練工程のことだろうと思います。

もうひとつの「叩く」これは、ある道具について調べてわかりました。皆さんは砧(きぬた)と呼ばれる道具をご存知でしょうか。僕は実物を見たこともなく画像をお借りするのもあれなのでイラストにしてみました。

こんな感じの木製の叩き棒です。これと木や石の板がセットで使用されます。昔は家庭で普通に使われていたようで、たとえば糊のきいた洗濯物を砧で叩くことで、しなやかさを持たせ、光沢を出したそうです。他にはアイロンのようにシワ伸ばしにも使ったそうです。語源は「衣板(きぬいた)」で板のほうが砧と呼ばれていたのがいつの間にか叩き棒を砧と呼ぶようになったとか。ちなみに父親の故郷での呼び名は「つちのこ」

そして砧は反物の仕上げでも使われているそうです。つまり高野裂を叩くというのは、仕上げに砧で叩き、しなやかさを持たせることなのだと思います。ただ、今でも叩かれているかどうかは疑問です。

これで、茹でる・叩くことについては概ね見当がついたわけです。

本題の高野裂の由来については、古い高野裂を見ると大概、赤橙色をしており高野山由来のこの色となれば法印様の緋色の衣と結びつきます。よって高野裂はこのあたり由来なのかな~と勝手に思っております。

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強い守護を受けてそうな襖

早いものでもう二月です。逃げる二月に去る三月、先日も暖かかったことですし春は意外とすぐ来るかもしれません。

さて先日は恒例の「古糊の水替え」を行いました。昔からある古糊は相変わらず水面がカビっていました。しかし、近年仕込んだ糊はほとんどカビっていません。ただ平成28年産の糊に少しだけ変化が見られました。

画像ではわかりにくいですが所々、薄茶色く変色してきていました。これは今後の変化が楽しみです。

話は変わって、ある日古い襖の修復のため表面の本紙をめくったところ下地からすごいものが出てきました。

梵字が書かれた和紙が貼られてありました。我々は、こういった和紙を「反故紙(ほうぐし)」と呼びます。 前もどこかで話したかもしれませんが、 反故紙は大福帳などの使用済みの和紙を指します。強靭な和紙に墨が塗られているため防虫効果が期待できます。

大福帳の中身が反故紙として貼られているのはよく見ますが、これだけの梵字が貼られているのは、なかなか見ません。圧倒されます。

確か梵字は一字ごとに仏様を表していたはずで、これだけ並んでいると何だか曼荼羅のように思えませんか?それも高野山内にあった襖なので尚更。もちろんできる限りきれいに剥がし保管しておきます。

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に色にまつわる女神様

高野山はすっかり紅葉が終わり、落葉しきった樹が見られ始めてます。気温一桁の天気もあり、いよいよ冬到来です。

高野山を下ったところに天野という地域がありまして、そこには丹生都比売神社があります。私はこの神社が大好きでよくお参りに行きます。

ここは高野山ととても深い関係があり、ご祭神である丹生都比売大神の御子である高野御子大神が弘法大師を高野山へ導かれました。そして今もなお高野山の守護神として祀られております。

丹生都比売大神の丹(に)という字は朱色の岩絵の具を指しています。水銀の鉱物から採れる丹は、貴重な鉱物で海外では賢者の石と呼ばれていました。水銀鉱脈がある地域には丹生と名づけられたところが多く、それら全国の丹を支配する一族の祀る女神が丹生都比売大神とされております。

神社は静かな場所で森を背景に立派な丹色の楼門がデンッと建ち素晴らしい景観を見せてくれます。私は、お参りのたびに表具の技術向上を願いますが、お門違いで神様方も困惑されているやも知れません。

毎月16日は御神犬のすずひめ号(紀州犬)がご神前にご参拝します。真っ白なかわいいお犬様ですよ(まだ会ったことないけど)

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慣れとは恐ろしいもの

いよいよ師走の12月になり、気候も冬らしくなってきた高野山です。

今回は、私がふと思ったことをひとつ

これは最近修復をした屏風の背面です。

屏風 修復後

修復前は経年により糊の接着力がなくなり、負荷がかかる紙番は自然に崩壊していました。

屏風 修復前

この屏風はおそらく今回が初めての仕立て替えと思われ、そうであれば製作されてから約100年ほど経っていることになります。表面には書画が貼られていました。それらの書画を修復しながら私は、「100年ほど前なら、まだ新しい方だな」と思っていました。

少し話が変わって上記の屏風と同じ頃、かなり古い作品を修復したのですが、そこに書かれた元号によると約400年前のものとわかりました。さすが歴史ある高野山。400年も前のものを修復するのは緊張します。そのとき私は、ふと客観視できたというか改めて思い知ったのですが、

400年も前のものが目の前にあるってものすごいことじゃないですか?

もちろん普段から古いもの新しいもの関係なく修復表装するときは、次の世代に残るように、出来るだけ今の状態を維持できるように、少しでもいい状態になるようにと修復表装します。だから、100年前が比較的新しいものと思うから手を抜くなんてことはないのですが、その作品を修復したときは目の前のものが、あまりに時間を越えてきたものだと改めて思い、それと相対していることに不思議な感覚を覚えました。

そこで、改めて私は上記の屏風を見て思ったのです。

「100年前のものが目の前にあるってものすごいことじゃないか」って

前までは15年ほど前をほんの数年前に思うような感覚の延長で100年前を思っていました。高野山は本当に古いものが多く、ありがたいことに私たちは日々それらを修復させてもらえます。その中で年数への慣れが生じていたのだと思います。

歴史あるものを扱わしてもらえる責任を再確認した、そんな出来事でした。

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紅葉の高野山。展覧会開催です。

高野山は今、紅葉で色鮮やかです。

今週末から山内で伝統産業展・公募写真展が始まります。これは、高野町と地域おこし協力隊が主動のもと高野山のお膝元で発展してきた伝統産業に着目した単行本「お大師さまの息」出版に伴い開催される展覧会です。

伝統産業展&公募写真展

当店も参加します。そこで展示するものの中に「丸包丁」というものがあります。

丸包丁

丸包丁は名の通り丸い刃の包丁で古来より和紙や裂地を裁断するときに使われました。最近では、カッターナイフを代用する場合があります。この包丁が優れている点は、切る対象との抵抗が少ないことです。特に裂地を切る場合、抵抗が少ないおかげで断ち面がほつれにくく、より綺麗に切ることができます。

カッターナイフを使用する場合、出来るだけ刃の角度を小さくしても限度があります。よって丸包丁よりは抵抗が大きくなります。

カッターナイフ 角度

しかし、カッターナイフは切れ味が落ちると、すぐに刃を折って切れ味を戻すことができます。

丸包丁は刃の角度を極めて小さくできます。

しかし丸包丁の場合、刃の切れ味が落ちると研ぐ必要があるため切るものが多いときは複数の丸包丁を用意する必要があります。そして、刃が曲線なのでとても研ぎにくいです。

と一長一短ある裁断道具たちです。

昔の弟子見習いさんたちは、次の日に向けて何本もの丸包丁を研ぎ、次の日先輩方に「全然切れない包丁やな」と嫌味を言われたとか言われないとか。まぁ切れはしたのでしょうが更に上を目指すための愛の鞭なのでしょう。

展示会には、他の道具たちも展示します。また、掛け軸などの展示も行います。お時間ございましたらどうぞ、ご覧にお越し下さいませ。

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数珠のルーツ

掛け軸表装の最終段階で「裏擦り(うらずり)」と呼ばれる作業があります。内容は軸装物の裏面を数珠で擦るのです。裏擦りについて→「裏擦り(数珠擦り)」

現在、表装で使用される数珠は水晶やガラス製が多いですが、かつてはムクロジという植物の種が使われていたそうです。どんなものなのかというとムクロジの実 外殻

これがムクロジの実です。黒くなってきていますが元は薄い黄緑で時期と共に綺麗な半透明の橙色に変わり、乾燥して黒くなります。

この実は石鹸の代わりとして使われていました。瓶などに水と実を入れ、良く振ると泡立ち、石鹸のように使えます。今でもオーガニック石鹸として洗濯などに使われます。この中に種が入っています。

ムクロジの実種は、ツヤツヤして硬いです。ムクロジの種は、お釈迦様のお言葉の中にも現れ、この種を使った数珠が「数珠の起源」とされています。

また、この種は、お正月の遊び「羽根つき」で使う羽根の先についている玉に使われていました。ムクロジを漢字で書くと「無患子」。子供が患わ無い縁起物です。

さて、この種。穴が開いています。元々は開いていませんが今回、ムクロジの数珠を作ってみたく穴を開けた種を取り寄せました。ただ、正式な数珠は108個の珠で出来ており、今回は50個仕入れたので、この数珠はあくまで表装用になります。

作り方は、ただ種をタコ糸に通すだけなので簡単に仕上がりました。

ムクロジの数珠使ってみると、普段のガラス製に比べ、滑りにくいように思います。もう少し使うと馴染んでくるのでしょう。この数珠は使うほど磨耗していきますので、大切に使っていきたいです。

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年季の入った障子に要注意!

師走となり今年も残すところ僅かとなりました。大掃除をしていく中で今年のうちに障子を張り替えようという方もいらっしゃるかと。

障子の張替えで、あまり語られないのが障子建具の角度です。これは特に年季の入った建具・建物(お寺さんや昔ながらの民家など)に言えることですが、経年で建物が傾いてきた場合、障子と柱の間に隙間ができます。

 

障子

 

 

また、建物に傾きがなくとも和紙をめくられた古い障子が傾く場合もあります。傾いた障子

これらの傾きによる隙間は、建具を一つひとつ調整しながら和紙を貼っていくことである程度、解消することができます。建具が傾くこと、建物が傾いていることに気づかずに和紙を貼った場合、最悪こんなことになるわけです。

 

傾いた障子2

障子の張替えといえども、侮れません。皆様お気をつけ下さい。

当店でも障子の張替えを承っております。が、年末になると依頼が増えますので早々に障子の張替え、ご依頼していただくとありがたいです。

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見えないところにも歴史あり

とあるお寺さんの古い掛け軸の仕立て直しをしていたところ掛け軸の上に付く棒(半月・八双などと呼びます)に表具師の名が書かれておりました。

半月・八双や軸棒は最終的に裂地で覆われるので、その見えないところに表具師の名を書き込むことは稀にあります。

当店でも大きな涅槃図を表装させていただいたときは、それまでの努力の証に、つい軸棒に名を入れたくなるものです。今回、名を書かれていた表具師さんもそんな気持ちがあったのでしょう。

半月

しかも、面白いことにこの表具師さん、どうやら高野山の人らしく書かれた内容を読みますと

「安永○申 四月吉日 高野山 表具屋 ○右衛門」

と書かれているようです(○印のところは解読できませんでした)
安永はどうやら1772年~1781年までを指すようで江戸中期でしょうか。
さらに申のつく年が安永5年の1776年になります。

当時、高野山に表具師は当然居たのでしょうが実際存在した形跡を見るとなんだか感動したり…

240年ほど前の大先輩が行ったであろう表装の跡をじっくり観察させていただきながら同じ工程を踏んでいくのでした。

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